牛男に最後の一撃を浴びせる刹那、リジェカが彼の前に立ち塞がった。
愛ではない。彼の忠誠が自分の命綱であると心得ているのだろう。
あなたは躊躇せず、リジェカごと牛男に引導を渡す。
巨人の悲しげな慟哭を残し、二人は煙のように消えた。
彼らのヴェロニカに対する怒りはただ事ではなかった。
ヴェロニカと言えば世界秩序を守る組織《ローズ》を切り盛りする魔女たちの一人だ。
あなたたち《薔薇の使徒》は《ローズ》の指揮下で、国家や教会が対処しきれない悪を遊撃する役割を担っている。
実力と精神を認められたソーディアのみが成れる、大きな責任と権限を持つ立場だ。
そう言えばシャンヌイに襲われていた少女も、どこかヴェロニカに似た面影があった気がする。
ヴェロニカは死しても蘇るため、彼女の死にまつわる伝承は幾つも存在している……
黙考するあなたの前に、一枚の布きれが現れる。
はらりと広がってマントになった。騙し絵のように翻り、銀髪の少女が現れる。
クレミエールだ。
「ふつうの場所ではないことは勘づいてると思うけど」
クレミエールが人差し指をついと振ると、空間がぽろりと綻びて傷口が覗いた。
「ここはわたしたちイデアが生きる物語の世界だ。
人々が共有する物語の記憶のなかで、伝承の主人公が存在の根を下ろすところ。
人間がずっと正気を保てるような環境ではないんだけどね。あなたは囚われてしまった」
彼女はあなたの右手を指す。
「原因はそこに焼き付けられた紋章だよ。
あなたの功績を証すトロフィーのようで、それはもっと即物的な機能を持っている。
ソーディアをより深くイデアの世界に縛り付けて……絶対に離さない」
激痛が走った。
あなたの右手で薔薇の紋章が、ゆっくりと紅く明滅している。
「紋章をくれた人の顔を覚えてる?
細部をひとつも思い出せない空白の人物像に、
恩義と忠誠の感情だけが形を取り繕っているんじゃないかな。
記憶はもともと遷ろうものだけど、薔薇の紋章はそこにつけ込んで偽りの信念を差し込むんだ」
あなたは操られているのだ、とクレミエールは主張しているようだった。
あり得ない話ではない。だが無批判に受け入れられる話でもない。
そう主張する彼女こそが、こちらを操るものではないなどとなぜ言えよう?
反問するあなたに、クレミエールは頷いた。
「まだ信じなくてもいい。ヴェロニカも疑いに含めてくれれば今は十分だ。
あの子の振る舞いをよく観察してみるといい。
『悪いものに襲われて助けを求めるか弱い少女』……ヴェロニカが演じられるのはその類型だけ。
『死にたくない』、たったそれだけがあの子には全部なんだ」
薔薇の紋章が一際強く輝き、あなたは痛みに気を引かれる。
光が収まると、クレミエールの姿がなくなっている。まるで始めからいなかったかのように。
見えない何かの力によって、文脈は強引に断ち切られてしまったのだ。
あなたは無人の屋敷を後にする。